ウエダテツヤの米国軟着陸

ドラマー・ウエダテツヤのアメリカ生活を赤裸々に報告

米国軟着陸プロローグ最終章 #1/3

ウエダテツヤ32歳。ドラマー。

人生はほんの束の間らしいじゃん。

一番大事なモノを抱いて駆け抜けるしかないじゃん。

以下自らがスッキリする為に綴る音楽半生を全3回に分けて。

記憶の断片をつなげる99%ノンフィクション。(記憶だからね)

注・極めて私的な視点かつエスカレートしていくと思われます。ご了承下さいね。

 

~赤裸々回想#1~

音楽を自分の皮膚の様に認識したのはいつだろう?

頭の中を常に鳴り止まない無形の音楽が、物事の判断の基準となったのはいつなんだろう?

JAZZや映画に囲まれた実家で父親からのプレゼントはドラムセットのプラモデル。恵まれていたと思う。大体は。

f:id:uedagym:20180313232517j:plain(実物)

小学生でピアノ、中学生で作曲をかじる。今少し譜面が読めるのもこのおかげ。

しかし煩悩まみれの厨二病、大して続かずスピッツを好きなコに歌ってあげたいウエダ少年は家にあった親父のギター、ベースなどを始めるも、出会いや変化は突然に。

今だから言える事でもあるが、客観性を持って演奏を続けていく場合、音楽生活のレール半分以上は人間関係が起因である。

どんな音楽をまとい、空気感をまとい、人生のどれだけを注いでいるのか。

そんな人々との不思議な縁を見逃さない事。

真摯に付き合う事。

それが勉強そのものなのだ。

 

〜夢見るベルボーイ〜

「てつくん、音楽好きなの?これ聴いてみない?」

中学2年。同級生が満面の笑みで俺に手渡してきた一枚のCD。

BLANKEY JET CITY / C.B.Jim

最初は声が気持ち悪いな~。なんて思ったが。いつの間にやら日々を過ごすのに欠かせない存在に。

2曲目「RED-RUM(夢見るbellboy)」のドラムに痺れてしまい、小節毎にパターンの違う8ビートを恐らく半即興で録音していたであろう中村達也氏に「普段耳にする音楽と何かが違う」と感銘を受け、同時に謎が生まれたのを鮮明に覚えている。

ここが始まりかな?多分そうだろう。打楽器に意識が向いた最初の事件だった。

 

吹奏楽

晴れてドラマーの出来損ないに昇格したのも束の間、練習がしたいあまり吹奏楽部の準備室に侵入を繰り返していると「上田君、パーカスできるの!?今人足りないからちょっと来て!!」と部長。

何の事やらわからず連れて行かれたのはティンパニの前。「簡単だからちょっと手伝って!」

譜面が少し読めた俺はなんとなく叩く。自分も含め区立中学の弱小吹奏楽部だ、今思うとヒドイ演奏だった気もするがそのまま1年間入部。半年後、文京区のコンクールで銅賞と言う何とも言えない結果に。この時期、人前で演奏する事やダイナミクスルーディメンツを初体験したんだろうと思う。集団演奏の礎。

何がしたいわけでもなく、目標があるわけでもなく、ただ自然に音楽に集中する事になっていった。と言うよりも、自己表現のツールがこれしか見当たらなかったんだね。きっと。

 

〜ちょっと上手い先輩〜

そんなだから高校入試は、流れ作業のどうでもいいものだった。

何の思い入れも無い私立を2~3校、今思えば受験料の無駄遣いもいいとこである。

当たり前のように滑り、滑り止め都立板橋入学。

根拠の無い自信でワクテカと軽音部を目指すが先輩のドラムが凄くていきなりビビってしまう。

「萎縮」「プチ挫折」「恥」これが良かった。

当時豊島区は在住、在学者に無料で音楽スタジオを開放する制度があり、学校に行かず朝からスタジオ。個人練習のため他の予約者が現れたら待つ。空いたらまたスタジオ。毎日10時間くらいは音楽に触れていた。上手い人はマメができないと言われているが、一生独学な我が手は今でもカチコチのマメだらけだ。小さな意地をありがとう、先輩。

 

〜同級生〜

後のカイモクジショウのギタリストともこの時期に出会う。高校最初期の友人でもあるのだ。

ブランキー一辺倒の俺とGLAYラルクに傾倒していた彼は4人組のバンドを組み、大して知らないミッシェルガンエレファントのコピーバンドなどでモテようとする。懐かしい話。後述するが訳あって彼とは今非常に疎遠なんだけど。(爆)

 

〜東京のライブハウスの隅っこ〜

学祭バンドごっこと同時に他校の人間とバンドを組み都内ライブハウスに出演し始める。ネーミングセンスが爆発して跡形も残らない「WEED OF STEREO」なるバンド、これが俺の一番古い記憶のオリジナルバンドだ。

高いノルマの洗礼を受けながら、パン屋のバイトも追いつかず。

ギグアンティック、アンチノック、サイクロン、ヘブンズドア

先輩に気に入られないといけない!みたいな強迫観念のもと、中途半端な演奏と打ち上げを繰り広げ、結局誰にも相手にされなかったような。今の感覚で言うとw

企画もドンドンやらなきゃいけない!なんて、今では歯科医ラッパーとして名を馳せるDr.COYASS氏の当時のバンド「洪水」の忘れられない記憶。

出演決まってないのに「洪水決まってます!」ってデンジャラスな嘘ついて箱抑えたのは中々強烈な思い出。結果出演してくれたから良かったけども・・・(時効)。

当時はライブハウスも盛況でしたねぇ・・・。メンツ見て出演者選べたんだから。

この時のメンバーの言葉で今でもたまに思い出す事がある。「てつやは一生音楽辞めない気がする」言霊、怖いよ。

WEED OF STEREOは形態を変えNUWと言うバンドとして活動を継続するもEPを1枚残し解散。みんな何やってるんだろう。

Dr.COYASSは今や大事な主治医だが・・・w

 

〜韓国〜

後のMUSHAxKUSHAのベーシストである平國臣との出会いが高校3年時。きっかけそのものは覚えていないが2005年の内田裕也さん主催NEW YEAR ROCK FES韓国に彼と出演。

大きいステージに立たせてもらったが今思うと・・・、ギターを弾いていた男の家族が焼肉屋を経営。そのお客さんからの繋がりと聞いてはいるが、誰かが組んだツアー、3人一部屋の韓国1泊3日で1人10万もかかるんだろうか・・・。という謎を残し(笑)バンドは単発崩壊。名前も憶えちゃいない。このバンドの消滅と共に平とは一時疎遠となる。

イベントそのものは素晴らしい設備とスタッフでドラムテック付いちゃったりして調子に乗る。日本からの共演には俳優の白龍さん。現地のバンドだとフジロック日章旗を破くパフォーマンスでプチ話題だったNoBrainなるバンドとか。

リムジンで会場入りするシーンを何度も撮り直す白龍さんを遠目で見ながら辛ラーメンをすすっていたようなほのぼのも。

でもやっぱり、韓国1泊3日3人1部屋で¥300,000(3人)もかかるんだろうか?謎は深まるばかりだ...w

後述するMUSHAxKUSHAとしての平國臣との10代の思い出である。

 

出来事を次に繋いでいく重要性、バンドを続ける難しさなんてこの時は一ミリも感じてなかった。自分が正しいと信じていた。

ただ続ける事に意味は無くて、進歩の途中だから辞められないと盲信する事。それだけがぼんやり見えていた。

高校生が何者かになったようなつもりと空回りの自信で、東京インディーシーンの水際でお金を落としながらパチャパチャ遊んでた時代は、おぼろげな経験?以外何も残さず終了。何も知らずここで辞めていく人間も多いんだろう。年齢は18歳になっていた。

#2へつづく・・・

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BLUES to go far