ウエダテツヤの米国軟着陸

備忘録・米国軟着陸

軟着陸最終回1/3 米国軟着陸 #66

冬が終わりに向かっていて、あと1月半で渡米1年を迎えます。

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最終更新から2ヶ月は経ってないかな。昨年末には色々と状況は激変し、一年前に思い描いた構想はほぼ完遂しました。あとは会社(Lionizeのレーベル)が今手続きに向けて動いてくれている「ウエダテツヤがアメリカに必要なんだビザ」が手に入れば(時間がかかる場合が多いので軌道に乗れば)米国軟着陸1年目の目標達成となります。アッと言う間だった。

DCは今真冬。春〜秋の人々のアクティブさや明るさが嘘のように静まり返っています。即ち、やる事があんまし無い。寒すぎる日はストリートバスキングも出来ない。出来たとして人が止まらず結果が出ない。教会のイベントも冬眠?ってくらい落ち着いています。LIONIZEもツアーの時期以外はすごくスロー。色々と先の予定は漠然と出てきているものの、まだ自分がレコーディングした音源は無いので実質ツアー以外はお小遣いゼロです。厳しー!

一応USに根を張りつつも日本人ミュージシャンとしては、このヒマな時期は毎年日本でやれる事をやるのが良いのかな?と、まじめに思ったりもしてます。2020に向けてやれる事もたくさんありそうです。特に英語を使っての色々には可能性ありそうだな。なんて。今年4月以降いつになるか未定だがビザが降りたタイミングから行き来も自由なわけで、何か仕事の依頼や企画への誘致があればフランクに2ヶ国を往来するのも素晴らしいな。と考え始めています。

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タイミング次第では日本にいるし、USにいても交通費で約13万+日当くらいかかるけど日本国内の高いプロ雇うより安いし、ちょっとだけ英語喋れるしアフリカンゴスペルやリアルUSロック仕込みの良い仕事しますよ。是非どうぞ。笑笑

しかし今は語学学校への通学があとちょうど2ヶ月残っているためしっかりこなす。学校に通いながら、ネットに上げられないスタジオワークや新しい音楽仲間との密会を重ねています。

今は常に心境と状態の変化を感じていて、考え方そのものも1年前とは全く違う形に変形してしまったような。

そう、軟着陸感が既にどこかへ消えた。

てなわけで、忘れもしない着陸初期から先月の一時帰国に至るまで、重要な出来事や感想をまとめつつ全3回に分けてウエダテツヤの米国軟着陸を終了しようと思います。これからこの道を目指す人、夢を見ている人の参考になればとも考えます。では・・・

 

#1 軟着陸初期の苦しみ

2018年4月6日、英語ゼロ、マネジメント無し、バックボーン無し、予定なんて妄想以外何一つ無し。

大塚ペンタから大量購入したスティックと生活用品を2つのスーツケースに詰めて降り立ったアメリ東海岸での生活は、吐くような不安と共に始まった。ダラス空港に降り立ち、約束していた迎えも来ず、なんとか言われるがままに向かったのはDIYライブハウス”THE VOID”。いきなり若者の英語にまみれ、混乱し、疲れ、失神するようにDylanの車で眠ったあの初日。一生忘れない。

ハードな道になる事はわかっていたつもりでも、いきなり予想と違う方向に流れ発進した新生活は、“Can”の使い方さえイマイチよくわからない状態で買い物もままならず、どこにも日本語でコミュニケーションをとれる人間は居ず、味わった事の無い孤独感と焦燥感に支配された。

「なんだこの無謀さは。日本に帰りたい」と思ったのも100回や200回では効かない。USで自分を試したいという覚悟の上だったとは言え、第1言語をいきなり排除すると言う重圧はやってみなければわからない地獄だった。そしてやはり心が弱ると見るのは悪夢。頭ではわかっている事もそんな夢の中では全てが被害妄想になって出現する。遡って過去全てがネガティブな悪夢となって毎晩襲いかかってくる。

過去のバンドの失敗、私生活の失敗、お酒の失敗、あの時こうしていたら・・・あんな事しなければ・・・。本当に我ながらよく耐え抜いたと思う軟着陸第一歩だった。感極まって部屋で1人吐いたりもした。

自分の心の脆さに向き合った最早懐かしい。音楽なんて二の次の、ひたすら自問自答の日々。

勉強という勉強を一切した事の無いなりに、思い付く限りの勉強(のようなもの)を繰り返し繰り返し、心を落ち着けていた。ずっと続くような混乱と先が一切見えない不安と共に。

 

#2 バスキング

2ヶ月は続いた混乱期から少しは抜け出したかな?と思えるタイミングが訪れた。一時も忘れず英語の勉強。文法とか単語ではない、話す勉強。常に常に話しかけて会話する努力だけは怠らないでやっていた。簡単な要望や意見なら話せて聞けるようになってきて初めて少し慣れたような慣れないような不思議な感覚に突入した。自分の第2言語としての英語の進歩を、30過ぎた脳みそではっきり自覚する事は未だ叶わないのだが。そして音楽に少し目を向けられるようになったのもこの頃。漠然とした目標に向けての第一歩を踏み出した・・・と、言うよりお金に余裕が無かった。20ドルでも30ドルでも、音楽で稼ぎ出す必要があったのが行動理由の大半を占めている。

そして

路上用ドラムセットの製作

ロクに言葉も通じず何のアテもバンドメンバーもいない状態で始められる音楽表現はストリートにしか無かった。おもちゃみたいなドラムセットに改造を重ねてスーツケースに詰めて街に繰り出し、ひたすらドラムソロを繰り返す。3時間、4時間、たまに5時間。やりまくっているうちに人々の反応の具合がわかってくる。聴衆に届いてこそのリズムでありグルーヴ。手ごたえの有無を実感しながら改善していく。それに伴い音色の改善、セットの改造も重ねていく。最終的にはスーツケースをぶっ壊してバスドラに改造、オールインのスーツケースドラムが完成した。演奏と音色の改善と共にバスキングマネーもみるみる増えていった。学校が終わりもし週5でやれれば、余裕で良い生活が出来る額にまでだ。これが何を意味するか?まずは「やれる」って事だ。ほんのり匂い始めたその「やれそう感」からピカー!っと一筋の光が差した瞬間だった。

年間100を超える小さなショウを繰り返していた日本時代から、全く音楽など二の次の混乱を経て、ミュージシャンとしての自我が再び顔を出し始めたような心の動きは、俺の音楽、ドラムの音色や雰囲気に影響したかもしれない。自分で言うのも難だが、人の心を掴む演奏への大きな進歩も実感した。

 

#3 転機・アーメン法蓮華経

ある日いつものようにストリートで演奏していると何か視線を感じた。1人の黒人紳士が少し距離を置いた場所からジッと演奏を観ていたのだ。おそらくその時間約1時間。まだ人種の壁を超えられていない時期、どうしてもちょっとだけ恐怖を覚えつつ・・・も演奏をしつづけ、休憩を挟んだその時遂にその紳士が話しかけてきた。「素晴らしい。素晴らしい。連絡をしてほしい。君は素晴らしい。連絡をしてほしい。」当時のリスニング能力からするとこんな感じの事を言っていた気がする。イエスエスとわからないまま名刺を受け取り、紳士はその場を後にした。

実はその後、何者なのか半信半疑+英語がまだまだままならなかったので、2週間ほど俺は連絡を放置してしまったが後日やっと連絡とりDCで落ち合い話を聞く。内容、お金、ちょっとした契約みたいなものをした。結果としてこれは米国軟着陸後の初めての大きな前進、街のブラックチャーチへの侵入を果たすキッカケになった。突然予想だにしなかったアフリカンゴスペルドラマーになったのだ。YouTubeによくあるようなチョップスやシカゴの様な教会音楽激戦区のテクニカルで派手なゴスペルをイメージしていたが、そんな要素はどこにも無く、街の一角で鳴らされる彼らが信じるものに向かって心の底から音楽を、歌を捧げる様は、観たことも聴いたことも無い歌とリズムのパワーが溢れかえっていた。

絶対に日本では味わえないアメリカの最も美しい部分。

感銘を受けるとかそんな次元の話ではない。その迫力と合奏出来る事に味わった事の無い喜びを覚えて、貴重過ぎる体験をしている事に感謝し、学べるものは全て学ぼうと更に音楽にのめり込んでいく大きな大きな転機だった。あのBrian Bladeも学びを置いた街のブラックチャーチゴスペル、爪先の爪先でも同じ道に乗ったような気がして天にも登るような気持ちになった。

歌!歌!歌!リズム!

毎週末様々な教会に繰り出してはドバッと演奏して帰る。そんな夢みたいな生活が始まったのだった。

Reveal Your Glory それこそが音楽に存在するタイムライン、グルーヴなのだろう。そんな事を身体が理解し始めていた。ような気がする。本当に歌う演奏とは何なのかを。

 

#4 日本人から学ぶ

アメリカであってアメリカでない場所、それが語学学校だ。南米、中東、ヨーロッパ、アフリカ、東南アジア、etc... スーパーインターナショナルだ。もちろん日本人もチラホラ。

そして日本で聞いていた、想像していたような世界各国のイメージが覆り続ける。

そして逆に世界が想像する日本のイメージも、結構我々が思うイメージと違う。

“サイレントジャパニーズ”

筆記テストの点数の良さと、スピーキングスキルの無さイコール日本人。知識はあるのに話せない。日本のテクノロジーやきめ細やかさの現れでもあるこの属性は、もちろん良い意味で作用する事もあるが、いざ話すとなるとダンマリ。有名なステレオタイプだが、実際そんな人は多い。本当に多い。

それはUSに居る意味がないな。と感じたので、自分は日本人で固まる様な事は一切せず、一期一会のバンドツアーをやっている様なノリと勢いで学校でも友達を作り続け、日本でやったら怒られるであろう自分の素のパワー全開で生活し続けた。

もちろん筆記テストとスピーキングポイントが日本人のそれと矛盾するように。そして不思議な事に、それが勉強そのものに馴染む。

特に南米系の友人達は、いまだに俺が日本人と信じてくれない。新しい出会いがあるたびに「おまえはどこの国から来たの?アジア人だけど、国のイメージが付かない」と何回言われたかわからない。それくらい日本人が世界中で大人しくて感情が無い、機械みたいな人達だと思われているのだ。良い悪いではなく、実際にそうかもしれない。そして自分がその逆方向にアクティブに、アグレッシブになれていると言う事は、まさに自分が思い描いていた活動が出来ていると言う事だ。学校はそれを試し、慣れる良い機会だった。

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と言うあたりで次回に

次回は冒険心と行動力で掴める物はなんだって掴むような気でやれる事を行なっていた日々が、とあるキッカケでドカンと前進する事になる軟着陸下半期の出来事や心の動きにフォーカスします。

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最終回2章へ続く