2019年4月6日、記念すべき1アメリカ歳となった。
日本人からするとアメリカには同調圧力が全く無いような感じ。いや、多少はあるんだろうけど感じない。そして出る杭は出る。自分次第でビョーン!と出る。その反面、個性と魅力を維持出来ない場合、簡単に終わる。と言うか始まりもしない。
そんな中で生き残るには音楽というフォーマットで自分を100%晒して解放出来る事、テクニックがそれに追いついている事、それそのものに自分だけの味わいとオーラを纏わせる事、そう言ったスキルが必須だ。ミュージシャンなら当たり前だが、24時間止まらず音楽についての考察と実践を続けていないと、この国の深いところには入り込めやしない。
演奏するのがストリートだろうがライブバーだろうがホールだろうがここはアメリカ。楽器を演奏しない、持っていない人の方が少ないこの国の人々の耳はとってもシビアだ。
何が言いたいかと言うと、1年で気付いた事としては自分の音楽を知るには素晴らしい環境だったって事。30過ぎたって言語習得は可能だし、お国柄ではあるがストリートでも稼げるし、セルフマネジメントで世界的なミュージシャンと現場を共有できる。映画やネットでしか観たことなかったようなゴスペル、教会で宗教の壁を超えて1つのグルーヴを出す事も可能だし、自分次第で信じられないスピードでアメリカを拠点に世界中に仲間は増えていく。世界中から人が集まるのと、移民の国でもあるからにして、日本では有り得ない事だ。
(トルコとブラジルは特にいつか行かなければならない。Lionizeがすでにギリシャを開拓しているので、目標はブラジル最大のロックフェス、ロラパルーザかな!と大風呂敷。ヨーロッパに関しては既に動き出している。)
更に先日、もうすぐ毎朝通い続けた語学学校も終わるこのタイミングで南米とメキシコの間の国、ホンジュラスからまるで1年前の自分のような新入生が入ってきた。俺との相違点は彼もなんでもやるが根本はラテンジャズドラマーである事、既に英語がかなり話せる事、そして俺という前例にいきなり出会えた事だ。彼はそれを雰囲気で察するように俺の行く先行く先に後ろをついてくる。一体どうやって一歩を踏み出したのか、一体どうやって音楽仲間を見つけたんだ、一体、一体・・・と、質問が絶えない。ただただ不安な面持ちで、無限に質問をぶつけてくる。
ああ、彼の気持ちが手に取るようにわかるし、なんだか嬉しくなった。
20歳にして母国ではプロドラマーの彼、右も左もわからない緊張気味で誰に聞いたのか「あなたがドラマーですか?」と話しかけてきた彼は、この国、音楽の聖地で挑戦したい。仕事がしたい。と立て続けに語り続ける。
わかる、わかるよ。
俺としても1年を客観的に反芻する良い機会でもあるし、彼と自分の音楽がどの水準にいるのか、やらなくてよい事と更に伸ばすべき部分は何か、そんな事も含めて、教えてあげられたら良いなと思う。
・・・だらだらした前置きはこの辺で、そろそろ米国軟着陸、終了しよう。
#8 MUSHAxKUSHA現る
2019年最初の使命、地の利を活かすとはまさにこの事。出国前の男の約束、MUSHAxKUSHA初のUSツアーのブッキングである。
これも又、何も無い所から自分の足で作り上げた1つの結果だった。
バンドから全5回のメンバーによる回想が公開されているので、本筋はそちらに任せておく。
俺にとってこのツアーは2018年末の大きなツアー直後だったので、アメリカで20年も30年も活躍するマジモン達と、日本を凝縮して焼いたような価値観のMUSHAxKUSHA御一行様の様々な文化とスタイルの違いを客観的に比較する事が出来て非常に勉強になった。そしてそれは非常に興味深く、面白いものだった。どちらが良いとか言う話では無いが、自分の足場が既にどちらにもないような寂しさも同時に少し感じた。
同じ空間にいるのに英語圏の窓から顔を出している自分と、日本語圏の窓から顔を出している自分の性格そのものがズレているような。
32年染み付いた日本の環境からいきなり全てを変えた米国軟着陸と、その第1周回を終えたタイミングでの彼らとの再会は、自分の中に文化的な歪みや捻れが生み出されている事も知らせてくれた。元々苦手だった縦社会的発想、空気を読む、など自分も絶対持ってるはずの日本特有の文化が、客観的に見た時にオエッと気持ち悪く感じてしまったのも事実だ。(重ねるがどちらが良いとか言う話ではない)
しかしその狭間は、何か新しいものを産み出す可能性も秘めていると感じる。結成20年を超えるもののメンバーが固まった事は無くB’z状態も長いMUSHAxKUSHAが強烈な「バンド」として大きく進化する為には、この特異な環境から何を得、何を産み出すのか、乞うご期待であり。
様々な文化的ルールの中で好きに出来ない事も多々ある日本のバンドだからこそ、言語の壁を超え、未体験ゾーンへのレールは舵を切れば乗る事が出来る。いちドラマーとしてその準備だけは完了したつもりだ。
#9 初めての台湾
英語が少し話せるというのは凄い事だ。台湾は英語が通じると言う前情報もあってか、海外に行く気が全くしなかった。実際、宿泊先の人々、ライブハウスの人々、コンビニ店員に至るまでシッカリ英語が通じた。いきなり未知の国で呑んで不自由無く会話してふざけられる。ボーダーレスを実感して超感動した。いきなりマンドリンが母国語の人々と、日本で呑むノリで下世話な会話が出来るのだ。素晴らしい事だ。ライブも大成功とは言えなかったが、それなりに楽しみ、得るものは得た。いくら設備が微妙でもアメリカのそれに比べたらスーパーイージーだ。日本への一時帰国に向けて、素晴らしいクッションとなった。(臭豆腐と苦茶はもう食べない、飲まない)
#10 6日間の日本
日本は凄い。何もかもが高性能、これでもかと綺麗で、街中至る所がこれでもかと世話焼きで、そこまでやるかと大量のマナーやルールを皆が守り、守られている。絵に描いたようなハイテクノロジー村である。村社会と世界最高峰の技術力の共存、独特な土壌だ。コンビニはパーフェクト。電車ちゃんと来る。安全。(ま、安全なだけに理不尽に暴力的な人とか電車でイキっちゃう人とか多いのかな。とも思う。)
でも、でもでもでも、今の俺のこのスタイル、姿勢で音楽やってなかったら間違いなく日本に住む。俺にとって、”音楽を取り巻く環境や文化以外”は、日本の完全勝利である🏆
そんな事を、感じる事が出来た。
#11 アメリカ帰国とピンチ
全てひと段落した時に降りかかってきたピンチ、学校の出席率である。2019年1月26日に日本からトータル22時間かけて深夜3時Rockvilleの巣に到着。翌日27日8時から学校である。朝到着するとロビーに呼び出され一枚の紙を受け取った。
Warning (警告)
と書かれたその紙には「今日この日より出席率が下降した場合は退学処分とする」と書かれていた。75%の出席率。45週間という長いプログラムの中で一旦落ち込んだ出席率を戻すのは時間を要する。
今まで一切完遂した事の無い未体験ゾーン「無遅刻無欠席」に挑戦しなくてはならないのだ。
日々は過ぎ…
正直寒気がしたが、結果としては無事80%まで回復(人間やる気になれば出来るもんだね)。EXITテストも無事に終了、この1年での獲得スコアは…
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入学テストElementary(小学生)
意味・コミュニケーション不可。ヒドイ。
↓
卒業テストAdvanced(上級)
意味・けっこういい。女の子と話せる。
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まだまだ日常会話レベルだけど、結果が出るのは何事も嬉しい。テストはオックスフォードの英語力チェックテストだったが、マネージャーが言うにはTOEICで言うと200点台から800点台に1年で伸びた事になる。
10数年前、偏差値40台、英語常時赤点、割り算も怪しかったワシが… にわかに信じ難いのでもう少ししたら遊びでTOEICテストを受けてみるつもりだ。まあ未だ難しい単語をあまり知らないから、知ってる単語を組み合わせてダラダラ説明する馬鹿みたいな英語を喋っているはずなので(ルームメイトの影響もありそうだ)、そのボキャ貧を解消しないと自慢出来る点数、900点台には到底届かないだろう。
そんなこんなで5月10日、学校を終える。
長かった…
# 12 あなたプロ?それとも?
アメリカに滞在する方法は沢山ある。観光ビザでの90日間、学生ビザでの5年間(要通学)、弁護士を雇い挑戦する様々なワークビザ。
末永くアメリカで活動したい、ホンモノと共演したいと言う夢物語の中で、英語力ゼロの俺に可能性があったのは1年の学生ビザ保持に必要な時間が最低レベルでの通学とチャンスの模索。それのみだった。
正直もう思い出せやしない、決起した時の気持ち。
2016年着想、2017年チャレンジングプラン決定、2018年にスタートした非現実的だったミッション、「移民法をドラムで掻い潜る」
に対して、やれる事は全てやった。やり過ぎなくらいやった。いや、やり過ぎや。
無料!の弁護士の発見。
(法律で年に数本のプロボノワークをしなければならないDCの弁護士が、俺の経歴から「イケる」と踏んで立候補してきたと言う形。)
LIONIZEのレーベルによる強力なサポート。
(10年の歴史の中で様々な経歴があるバンドにドラマーとして求められている事がポイント)
そして何より、リスペクトの中で友達になったミュージシャン達からの超弩級のレコメンドレター。
(HPで見れます。超強力)
DRUMMER - TETSUYA UEDA web. - About
本当に宝物だ。特に有名でもない、なんのこっちゃない普通のドラマーに対してコレは、アメリカン・ドリームと言ってよい。レコメンドレターに関しては実際は「VISAが欲しい!何か書いて!なんでもいいから!ね?お願いだから!」ってお願いしたんだけどね。爆
そして全てが並列に準備され、5月始め、弁護士により「ウエダテツヤのアーティストビザ獲得大作戦」が開始された。いくら強力なサポートがあっても確約されないのがこのビザ。中には数年がかりで商売弁護士に数百万円かける人もいる。
しかし、
お金を持ち出さずに勝ち取るアーティストビザこそが最終的なグリーンカード獲得への「筋道」であり、それがアメリカがアーティストとして俺を欲すると言う事であり、無謀だったはずの目標の達成である。
それは遂に、遂にすぐそこまで来ている。
# 13 あとがき🛬
2019年5月7日。全てのやれる事はやった。全ての準備は終えた。無事アメリカ版「まな板の鯉」状態に晴れてなり申した。あとは野となれ山となれ。もしビザの獲得に失敗したとしたらまた別の方法を考えるだろう。そこに後悔は無い。
全部やったから。
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ウエダテツヤの米国軟着陸、不定期更新の中読んでくれてありがとうございました。結局全68回、読み返してみたらあまりにも赤裸々で、おんなじ事ばかり言っていて恥ずかしいが、一つの記録として残していこうと思います。またこの1年の記録が、日本で真摯に正直に音楽に向き合い、そんな音楽家としての未来を探している人々の参考に少しでもなれば、俺はとても嬉しい。
このブログは少ししたら名前を変え、テーマも変えて引き続き更新していけたらと思います。
(1年前)
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PS: 全部やってなかった。車の免許取ってねぇ… ビザ降りたら速攻で…!
[完]